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源頼朝と土肥実平

治承4年8月17日源頼朝の挙兵治承4年8月20日相模国土肥郷への進軍治承4年8月23日石橋山の合戦治承4年8月24日相模国土肥椙山隠潜治承4年8月27・28日安房国への船出治承4年8月29日安房国上陸

源頼朝と土肥実平

源頼朝
 1147年、京で生まれる。
 1159年に起きた源氏と平氏による対立による政変、「平治の乱」で敗北。平家側に拘束され、死刑と決まるが、平清盛の継母、池禅尼の嘆願によって、伊豆の蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)に流罪となった。
 1177年、北条政子と結婚、以後北条氏の後援を受けるようになる。1180年、以仁王の令旨をうけ、関東地方の平氏、近江源氏を従え、挙兵。石橋山の戦い(小田原市)で敗北するが、梶原景時に危機を救われ、また、真鶴の人々から手厚い保護を受け、土肥実平らとともに、岩海岸(源平盛衰記による※1)から安房国平北郡の猟島(かがりしま)へ逃走。その後、態勢を整え、富士川の戦いで平維盛ら平家方を倒し、関東平定。鎌倉に本拠を構えた。
 1185年には壇ノ浦の戦いで平家一門を滅ぼし、1189年には阿津賀志山の戦いで奥州藤原氏を征討。1192年、朝廷より征夷大将軍の任を受け、幕府を開いた。武家政治の基礎を築く。1199年、相模川での落馬が原因で死去。
 


土肥実平及び夫人の像(JR湯河原駅前)
土肥実平
 生没年不詳
 桓武平氏の一族の出で、父は中村庄(現在の神奈川県中井町一帯)に館を構えた中村庄司宗平。その次男であった実平は、相模国土肥郷(現在の湯河原町・真鶴町・小田原市の一部)に住んで土肥を氏とした。
 源頼朝が、1180年伊豆の蛭ヶ小島で平家討滅の兵を挙げると一族を率いて参画。石橋山の合戦で平家方の大庭景親に敗れた頼朝を連れ土肥山中を逃げ回り、巌窟・地蔵堂・大木の伏木などに隠れ、平家の追っ手から逃れ真鶴から安房国へ逃走。その際、実平は一族を挙げ頼朝を守り抜いたため、以降、頼朝からの篤い信頼を受ける将となった。
 その後、土肥山中で平家方にありながら頼朝をあえて見逃した梶原景時や奥州から黄瀬川の陣に馳せ参じた頼朝の弟 九郎義経が頼朝と対面する際に取り次ぎ役として吾妻鏡に登場するなど頼朝の重要な側近として、また平家追討の諸戦や義経追討、奥州藤原氏征伐では侍大将として活躍した。このように土肥実平は、鎌倉幕府の草創期を語る上では欠かすことのできない武将の一人と言える。

 
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