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源頼朝と土肥実平

治承4年8月17日源頼朝の挙兵治承4年8月20日相模国土肥郷への進軍治承4年8月23日石橋山の合戦→治承4年8月24日相模国土肥椙山隠潜→治承4年8月27・28日安房国への船出治承4年8月29日安房国上陸治承4年9月5日洲崎神社参拝

吾妻鏡 治承4年8月24日 土肥椙山隠潜

 石橋山の合戦で敗戦が濃厚となった頼朝主従は24日の明け方、土肥郷へと敗走。土肥杉山の堀口というところで平家の追っ手と再び激しい戦を繰り広げましたが、その際、頼朝主従は、堀口から後方の峯へと逃れています。この土肥杉山山中への逃走の折、土肥実平が、「大勢を率いて、この山の中に隠れることはできない。頼朝お一人ならば10日でも1ヶ月でも実平の計略でお隠しできます。」と申し出たため、主従分散して土肥杉山の中に逃れることになったと吾妻鏡は記しています。
 その後、実平ら少数の者のみを従えて土肥椙山山中へと逃走した頼朝は、途中、「或る巌窟」に持っていた観音像を安置したと吾妻鏡は記しています。
 

しとどのいわや
 吾妻鏡は、土肥山中を逃走中の頼朝が、持っていた観音像を「或る巌窟」に安置したと記しています。一方、源平盛衰記は「トビの岩屋」という谷にあった大きな臥木に頼朝主従が身を潜めていたところ、その臥木を不審がった平家方の大庭景親が中を探索しようとしたが、山鳩が二羽飛び出たため、「佐殿(頼朝)が隠れていたならば、鳩が今までおとなしく臥木の中にいたはずがない」と言って探索をせずに、一旦その場を引き揚げたと記しています。
 現在、吾妻鏡に登場する「或る巌窟」であるとされる巌窟が湯河原町と真鶴町にそれぞれ1箇所あり、源平盛衰記の「トビの岩屋」の逸話と合わさったためか、ともに「しとどのいわや」と呼ばれています。
 

土肥椙山巌窟
土肥椙山巌窟
(どいすぎやまがんくつ=神奈川県足柄下郡湯河原町)

 吾妻鏡に登場する「或る巌窟」は、前後の文章から土肥杉山の山中にあったと推察されます。
 そして、この吾妻鏡の記述に最も合致する巌窟が、湯河原町桜郷の「土肥椙山巌窟」、いわゆる「しとどのいわや」です。
 この「土肥椙山巌窟」は、昭和30年に伝源頼朝隠潜地として県の史跡に指定されています。

交通:JR東海道線湯河原駅から元箱根方面行き(パークウェイ経由)バス しとどのいわや下車 徒歩15分

 

鵐窟
鵐窟
(しとどのいわや=神奈川県足柄下郡真鶴町)

 江戸時代後期に編纂された「新編相模国風土記稿」は、真鶴港の鵐窟を頼朝が隠れた巌窟として断定たうえで、小田原の北条氏綱が伊豆山権現に参詣した帰路にこの巌窟を見物したという記録を掲載しています。
 この鵐窟、かつては高さ2メートル、深さ10メートル以上の大きさがありましたが、度重なる崖崩れで数十センチ程度の大きさにまでなってしまいましたが、のぼりが立てられるなどされ、史跡として大切に保存・管理されています。


交通:JR東海道線真鶴駅から真鶴岬方面行きバス魚市場前下車
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